【京都】明智光秀の功績と本能寺の変を巡るその0

【京都】明智光秀の功績と本能寺の変を巡る

2019-11-12
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2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀。織田信長を討った謀反人として知られている彼のゆかりの地を巡る連載です。
第二回は、光秀の活躍と、歴史の転換点となった本能寺の変にまつわるスポットが点在する、京都を巡ります。

光秀の出自がわかる「岐阜・滋賀編」はこちら

政治的手腕を発揮した「丹波亀山城跡」

政治的手腕を発揮した「丹波亀山城跡」
織田信長に仕えるようになってから、その功績が認められた光秀は丹波攻略を命じられますが、同時に統治者としての手腕も発揮します。

1577年頃、丹波攻略の拠点として光秀は亀山城を築城します。1580年、丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町整備と領国経営に着手。そして1582年、ここから本能寺へと出陣しました。城はその後小早川秀秋により修築され、1610年、岡部長盛の代に近世城郭として完成。城跡の石垣には江戸幕府による天下普請の痕跡(刻印)も見られます。

毎年5月に行われる「亀岡光秀まつり」は光秀の遺徳を偲ぶもので、いかに慕われていた領主だったかがわかります。

◆丹波亀山城跡
住所:京都府亀岡市荒塚町
アクセス:京都縦貫自動車道亀岡ICから約2.5km(一般用の駐車場なし)、JR亀岡駅から徒歩約10分
電話:0771-22-0691(亀岡市観光協会)
入場無料(総合受付にて要申込)

光秀の功績にふれられる「福知山城」

光秀の功績にふれられる「福知山城」
1579年頃、丹波国を平定した光秀が新たな拠点として築城したとされているのが福知山城です。光秀は城下町の整備にも力を入れ、福知山発展の基礎を築きました。

現在の天守閣は江戸時代初期のものを参考にした復元ですが、天守台石垣の最古段階は光秀によるものと考えられ、光秀期の遺構を間近で見ることができます。復元天守は郷土資料館となっており、光秀をはじめとする福知山城城主ゆかりの資料も展示されています。

福知山の城下町に足をのはせば、光秀を祀る「御霊神社」があります。善政を行った良君として伝わる光秀をきっと感じられるはずです。

◆福知山城
住所:京都府福知山市字内記5
アクセス:舞鶴若狭自動車道福知山ICから約6km、JR福知山駅から徒歩約15分
電話:0773-23-9564(福知山城/福知山市郷土資料館)
入館料:大人330円、小人110円

運命の決断をした⁉「愛宕神社」

運命の決断をした⁉「愛宕神社」
京都を見下ろす愛宕山の山上には、戦の神・勝軍地蔵が主神である愛宕神社が鎮座しています。

火伏防火の神として「火迺要慎」のお札が有名な愛宕神社は、光秀が「ときは今あめが下知る五月哉」の句を詠んだ地でもあります。信長から中国出陣の令を受けた後、光秀は愛宕神社西之坊威徳院で連歌の会を催します。そこでこの句が詠まれ、数日後に本能寺襲撃が決行されたことから、光秀の決意表明とも考えられています。

光秀は連歌の会に先立ち、くじを何度も引いたといわれており、光秀の苦悩がうかがい知れます。

◆愛宕神社
住所:京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1
アクセス:名神高速道路京都南ICから約17km(登山口駐車場まで)登山口から徒歩約2時間、阪急電鉄嵐山駅からバス約30分、清滝下車、徒歩約2時間(山頂まで登山道)
電話:075-861-0658(愛宕神社)
拝観無料

歴史の転換点「本能寺跡の石碑」

歴史の転換点「本能寺跡の石碑」
1582年、光秀軍の襲撃を受け、信長が自害した「本能寺の変」。その舞台となった本能寺は、当時堀川四条の近くにあり、寺域は最大で東西130m、南北約250mでした。最近の調査成果から、本能寺はこの石碑の北側にあったことが判明しました。なお、寺町御池にある今の本能寺は、「本能寺の変」の後に豊臣秀吉が再建したものです。

なぜ光秀が謀反を起こしたかは、いまだに謎に包まれています。
東山三条白川筋には光秀首塚がありますので、光秀ゆかりのスポットをたどりながら、思いを巡らせてみるのもおすすめです。

◆本能寺跡の石碑
住所:京都府中京区小川通蛸薬師元本能寺町
アクセス:名神高速道路京都南ICから約7km、阪急電鉄嵐山駅からバス約30分、阪急電鉄大宮駅から徒歩約10分
電話:075-213-1717(京都市観光協会)
見学無料

おわりに

光秀の功績から謀反までの足跡を感じることができる京都。
ゆかりの地はまだまだあるので、大河ドラマを見る前にぜひ足を運んでみましょう。

次回は、明智光秀のその後(⁉)に迫ります。

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